File No.4 株式会社ファイブスター事務所 中村和也 さん

保険


“中村和也は半端ない!”

中村は商談前の事前準備に徹底的に時間をかける。1回の商談は平均1.5時間。それに対し、事前にクライアントへの提案内容を検討するのに要する時間は実に3~4時間。事前情報からクライアントの属性(個人の職種や勤務先などの社会的立場、年収や保有資産等)を想定し、ニーズや欲求を想定する。その人が今何を必要としているか、シミュレーションや推考を繰り返し、それをアポイントの直前まで行う。これが最善だと思えば商談1時間前に提案内容を変えることすらある。
中村がここまでクライアント本位の姿勢を貫くには、これまでの彼の半生とも言える人生の苦い経験がある。その始まりは彼が高校卒業のタイミングまで遡る。

“波瀾万丈の転職に次ぐ転職”

日本の環境土木政策(自然と調和のとれた道路や河川・農地の保全に必要な土や水・コンクリート等にかかわる政策のこと)や農業のあり方に疑問を抱いていた中村は、高校卒業と同時に渡米。環境土木を学ぶためオクラホマ大学への編入を果たす。使命感に燃える若者は3年間、平日は睡眠時間の2時間以外勉強に没頭した。ところが猛勉強を重ねた無理がたたったのか、体調を崩し、志半ばで帰国することとなる。

折しも時代は就職氷河期。米国で学んだ知識がなかなか生かせない状況の中、やっとのことで就職できた先が、大手かつらメーカーの名古屋支社であった。だが、不運はつづく。
会社の業績が悪化し、24歳にしてそのリストラ対象となってしまう。すでに結婚していた中村には6か月の幼子も抱えるタイミングでもあった。

その後転職した先が創業わずか1か月という家屋の補償コンサルタント会社(第三者として地権者と工事業者の間に立ち、家屋の状態・損傷等を適切に把握し、工事による因果関係を判断する事前・事後調査を行う会社)。ここでは環境土木の知識も生かすことができる職場ということもあり、中村は次第にやりがいを感じられるようになっていった。ところが、1年半ほど経ったころ、またもや不運が中村を襲う。会社の資金繰りが悪化し、事業が立ち行かなくなる可能性が出てきたのだ。そんな折、偶然かつてのかつらメーカーの同僚で、同じタイミングで転職していた先輩から彼の働く化粧品会社で一緒に働かないかと誘いの声がかかった。尊敬していた先輩からの誘いということもあり、今の会社の現状を考えると再度転職を決断するまでにそれほど時間はかからなかった。

“才能の開花とメンタルとの戦い”

これまでとは畑違いの分野へ転職した中村だが、にわかに頭角を現す。顧客満足度向上のため、新たに金融部門の立ち上げに中心人物として携わった。会社独自のクレジットカードの発行や、割賦販売の仕組みの導入、オリジナル保険商品の企画販売など矢継ぎ早に新サービスを立ち上げ、さらにはそれらを管理する基幹システムの構築を数億円の予算を投じ成し遂げたのだ。こうした中村の大車輪の活躍ぶりは、ほどなく彼を部長級の待遇に押し上げることとなった。

順風満帆に見えた中村だったが、その裏では常に人間関係に悩まされていた。強力なリーダーシップで組織を牽引することは時には軋轢を生む。さらに周りからの妬みややっかみも加わり、中村の心は急激に疲弊していく。ついにはうつ病を発症し、出社すらままならない状態になってしまったのだ。

それから4か月休職した。自分が目指しているものはこれではない。心のゆとりを価値として提供できないか。そしてうつにならない仕事は何かを徹底的に考えた。
そうして中村が出した結論は密かに以前から構想を温めていた「農業」だった。

“日の目を見なかった最先端の農業ビジネス”

31歳で脱サラ。自身で耕作放棄地の地主と耕作希望者を仲介しサポートするビジネスを立ち上げた。同様のビジネスは京都の農業ベンチャー企業がすでに取り組んでおり、成果を挙げていた。その仕組みを当時民間では中部地方で初めて採用した。多くのマスコミの取材も受けた。
しかし、中村の取組みはこの知多半島という保守的な地域では、時代を先取りしすぎて周りがついてこられなかったのかもしれない。
中村は言う。「戦略がまるでなかったんですよ。勢いや思いだけで突っ走ってしまいました。そうすればマスコミも取り上げてくれて、問い合わせも増えると思っていましたし、ビジネスとして成り立つと思っていたのですからね。甘かったですね。」
到底農地仲介ビジネスだけでは生活は成り立たず、家族を養うための生活資金を稼ぐためアルバイトも余儀なくされた。コンビニの夜勤を週5日、塾講師週4日、家庭教師週3日を掛け持ち。年末年始には郵便配達もやりながら、寝る間を惜しんで働いた。

“転職 から 天職 へ”

月日は流れ、苦しい状況は好転しないまま事業開始から3年が経とうとしていたある日、中村は何気なく見ていた求人誌に生命保険代理店募集の記事を見つける。化粧品会社で保険商品を扱った経緯もあったが、特段関心があったわけではない。だがその時は妙にその記事が気になった。それが商売になるのかの勝算もなく不安や迷いがあったが、「悩むくらいならやってみよう」という思いで、保険業界の門をたたくこととなった。
すると持ち前の粘り強さとお客様へのお役立ちの姿勢から保険業が軌道に乗り出したのだ。当初は掛け持ちしていた農地仲介ビジネスはその後1年で清算し、保険が専業となった。中村はこの仕事がいつしか天職だと思うようにまでなっていった。

「実は起業したいという若い人の相談に乗ることが度々あるんですが、甘くないぞ!俺みたいに追い込まれても乗り切る覚悟があるか?っていつも聞いてしまいますよ。」

中村はつづける。

「紆余曲折あって今があるので、お客様一人ひとりのありがたみが身に染みています。それだけに一つの商談も気が抜けないのです。その方に合った提案なのか、お役に立てるのか、ずっと考えています。」

苦労人の中村の言葉には圧倒的な説得力を感じずにはいられない…

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=御社が取り扱う保険会社を教えてください。=
当社では生命保険はアフラック、損害保険は日新火災海上と三井住友海上火災を取り扱っています。

=お客様に喜んでもらったエピソードがあれば教えていただけますか?=
他の代理店で医療保険に加入していた60歳の女性のご相談にのっていたときのお話です。15年前に脳梗塞を患った際に、窓口の担当者からは支払対象外と言われ、全く給付金を受け取れなかったと伺ったんです。どう考えてもおかしいと感じた私は、その女性の当時のカルテや診断書を取り付けることに協力し、保険会社への問い合わせをお手伝いしたのです。結果、支払われるべき事案だったとのことで、このケースでは300万円の給付金が支払われました。
担当者が嘘をつく理由はないので、女性とのコミュニケーションの中で行き違いが生じ、重大な見落としが発生してしまったのだと思います。そのときは電話でのやりとりだけだったようです。

=そんなことが現実にあるのですか?=
頻繁にあるわけではありませんが、子宮がんの患者さんでも同様にありました。その方を同じようにサポートしたら、あとから120万円を受け取られています。
こうしたケースを見るたびに、とにかくお客様と面会してのコミュニケーションが大事だと痛感します。
保険は出口(受取り)が大切です。入っていても受取れないのでは意味がありません。

=お勧めの新しいサービスはありますか=
自動車保険の付帯サービスでドライブレコーダーの貸し出しがおもしろいですよ。当然事故に遭った際の証拠になるのですが、それ以外の用途として、オンラインで保険会社とつながっているので、安全運転の判定もしてくれます。高齢者で運転技術に自信がなくなってきた方へ、客観的な運転技術の指標をご提供できます。

=今度のビジネスの展望はどのように考えていますか?=
同じ時期に保険代理店を始めた知り合いが10人ほどいるのですが、今現在続けているのは私だけです。1人でも顧客がいる限り、この仕事は絶対に辞めません。顧客本位の姿勢を貫きます。
今、個人のお客様が9割なので、法人向けのコンサルティングにも力をいれていきたいと考えています。

=青年部では半田のこども育成委員会の副委員長として活躍されていますね。=
これまでPTAの役員もやっていましたし、学校の先生の知り合いも多いので、子どもたちを取り巻く教育環境が変わってきていることを痛感しています。青年部でも子どもの育成を扱う委員会に所属していますので、日本経済が厳しい中でも、豊かな心を持つ子どもたちを育てられるような事業を展開したいと思っています。忍耐力、我慢強さ、壁を打ち破る力を持った人材を育てていきたいという想いがあったので、良い委員会に配属して頂いたと思っています。
8月のバスロゲイニングの事業は、子供たちの育成という側面と半田市の経済、さらには未来を担う人材を育てるという面で、とても良い事業だと思っています。
年度末には委員会のまとめ役である山本悠介委員長、鈴木靖隆専務を男にしたいですね。

=相当な思いで、社業に、青年部活動に取り組んでおられることがわかりました。
本日はどうも、ありがとうございました。=
ありがとうございました。


株式会社ファイブスター事務所
半田市瑞穂町9丁目7番地25
TEL 0569-58-0375
FAX 050-3156-1294
代表取締役 中村 和也


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